説教箇所;ヨハネ福音書15章16,17節
ヨハネ講解説教#82『選ばれる?!』
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。」
ヨハネ福音書 15章16節
イエスは「選び」を語られた。それは、主が人に救われる人とそうでない人の区別(差別)を付けておられると言う事ではない。主は「わたしがあなたがたを選んだ」と宣言なさることにより、「選ばれし者たち」への保障を与えておられる。彼らには任務がある。その目的の達成のために、確実な手段を与えてくださっている。
【1】
「誰が選ぶのか」
一方的な選び;
・私たちが選んだのではない、主が選ばれた;選んだ者にのみ責任がある。
・
選ばれた者への保障;徹底的な信頼・最終責任の引き受け
【2】
「選ばれた者の任務」;任命された
役目
・
行く;他の人ではない、私が行く。
・
実を結ぶ;まことのぶどうの木につく枝として、イエスの特徴を持つ実を結ぶ。
・
その実が残る;一時的なブームで終わるのではない。その実は残り、次の実につながり、主のいのちが終わる事はない。
そのために主の御名によって求めるものを父が与えてくださる。(手ぶらで遣わされるのではない)彼らは、祈りによってその任務を達成していく。
【3】
「私が選ばれている?!」
・
人に記録されている者;人間社会でキリスト者の承認と保障を受けている人
信仰を告白し、洗礼を受け、教会のメンバーとなった者。(レフトビハインドな人々;クリスチャン寿命は2.5年。洗礼を受けたが活動をしていない信徒。)
・
人に記録されていない者;しかしキリストの実を結び続けている人
「イエスにつながっている」人々、選ばれている者たちは、行って「互いに愛し合う」人々。イエスが私たちを愛されたように。
2010年2月22日-2月27日 日々の祈りのため
従順のための戦い;士師記『士師たちの記録』
2月22日(月)聖書;士師記10章1-5節「トラとヤイル」
解説「短い箇所に二人の士師の名前が記録されている。トラは23年間、ヤイルは22年間イスラエルを治めていた、短くはない期間。その具体的な働きについても記録はない。彼らの治世に国が安定していた(ヤイルの息子は平和の象徴ロバに乗る)はず。主への裏切による苦痛の記録もない。だが、神との関係の刷新が起こったのでもない。平和は神と人との関係を強めないのだろうか。」
2月23日(火)聖書:士師記10章6-16節「重なる主への裏切り」
解説「さばきつかさがいなくなると、イスラエルは再び土地の神々、外国の神々へと心を移す。偶像崇拝の末イスラエルは、『非常な苦境』に陥る。すると彼らは主に向かって叫ぶ。神はそこで、ご自身が何度彼らを救ったか思い出せと叱責され、他の神々を選びちづけた自己責任を追及される。なぜ悔い改めは、真実なものとならないか?神は、再び苦しむ民に心を動かされる。」
2月24日(水)聖書:士師記10章17-11章3節「エフタの登場」
解説:「生ける神を裏切る民に、敵の情勢は厳しくなる。しかし同じ時に、民の叫びを聞かれた神は、民の救いの備えを始められた。次の士師はエフタ。彼は、名前も記されていない遊女の子。同じ父の子たちから認められず、追い出され、社会の追放者たちと同類であった。全うな人々が相手にしない存在を、神は次の救済策として用意された。権力・能力ではない、主の霊によって。」
2月25日(木)聖書:士師11章4-11節「首領エフタ」
解説:「世が平和ならかまわれない外れ者エフタに、長老たちは戦いの首領になってくれと懇願する。身分・生い立ち・品性を問われなかったのは、敗戦の予兆の苦肉の策。7節のエフタの言葉は、そのまま主の心境ではないか?苦しいからと私のところへ来るのか。ご都合主義の願いに、神はエフタを選ばれた。民はエフタの指揮に従うと約束する。主への忠誠が戻ってくる瞬間。」
2月26日(金)聖書:士師11章12-28節「指導者の知識」
解説:「エフタはアモン人の王に使者を送り、両国の懸案となっている領地の権利について、出エジプト・歴史の出来事から確認する。エフタは、イスラエルの社会に認められない生活を過ごしていたにもかかわらず、自分の民の歴史・事件、土地の権利について交渉(外交)する知識を持っていた。愛国心・忠誠心は情熱だけでは成り立たない。正確な情報を持つ必要がある。」
2月27日(土)聖書:士師記11章29-33節「主の霊が下り」
解説:「戦いのために主の霊に満たされる士師エフタ。神の戦である証拠。それなら勝利は確実である。ところが、士師は勝利の誓いを立て、全焼のいけにえをささげると。動物ではなく、自分の家で迎えに出る者(人)を。アモン人は当然のように負かされた。誓わずとも神がなさることなのに。激情がわいてくるとき、人は心と口に注意が要る。主への誓いは変えられない。」
2月28日(日)聖書;士師記11章34-40節「いけにえ」
解説:「軽率な誓いの結末。勝利を治め喜びに湧いたとき、エフタは自分の愛娘が祝福のダンスで家から出てきたのを見た。彼のたった一人の子ども。勝利の喜びは一瞬にして悲しみに変わる。娘は父の神理解に従って、自分がいけにえとなることを覚悟した。しかし、神がご自身から望まれたいけにえではないのに。異教的いけにえの習慣と区別がつけられなくなっていたのか。」
神との友情 第3章祈りの生活に入る
ジェームス・フーストン P39-41より(抜粋)
(祈りが)どんなに個人的な行為に見えたとしても、祈りは個人主義の逆をいくものです。孤独の中にひきこもることは、神の御声を聞くためには必要ですが、真の祈りは他者の必要とも関係しているはずです。祈る人に新しいいのちを与え、様々な人間関係へと送り返してゆくものでなければなりません。他者と全く関わりのない神との交わりは、本物とは言えません。
「私たちはみな激情を持っているので、自分の心の善良さを完全に信じるべきではない。ものさしが曲がっていれば、曲がったものがまっすぐに、まっすぐなものが曲がってしまうからである。神の心と一つにされた愛は、人間生来の情愛よりも強力である。」ガザのドロテウス


